四苦

 

仏教で  四苦とは 生・老・病・死 で 
どんなにあがいても どんなに努力しても 
さけられないことをいいます

 

 

お釈迦さんが 王子の身分から 

出家して修行することになったお話しとして

 

 

お城の東門で よぼよぼとした老人にであい

 

すべての人間には、老いの苦しみから免れることができない

 

 

南門で、道端に倒れてる病人と遭遇し

 

すべて人間は、病の苦しみから免れることはできない

 

 

西門で、遺体を運んでいるお葬式に遭遇しすべて人間は、

死の苦しみを免れるものはないと

 

 

そして北門で出家した修行者に出会い、

その落ち着いた、清らかな足どりで歩く姿に感動し、

自らも出家をしようと決意したというのです 

 

<四門出遊>とお話ですが

 

これは「老」「病」「死」という人生の重大事実を

 

つい見逃して暮らすこと、誰もそれを自覚することなく

日々を無為に生きていませんか

 

そして 心の平安を求める修行という生き方を選ばないと

 

生きることも苦でしかないと と言っているお話なのです

 

老・病・死の苦悩の解決はなくて、

 

自分の心を正しく支配できるよう心のアドバイスをして

 

叶わない思いで苦の人生にならないように

 

生・老・病・死の四苦から解放されることが

 本当の幸せなのかもしれません。

 

。。。愛羅。。。

頂きます、ご馳走様

 

この言葉は仏教からきています

 

動植物のかけがえのない命を

食するのでいただきます

 

 

ご馳走様は 

食事などのおもてなしをする為に、

 

あちらこちらと食材を求めて走り回る

苦労に感謝するために言うのです。

 

 

 

安易に誰かを傷つけてしまう事件をおこさないために

 

毎日食事をするたびに

 

頂きます、ご馳走様と言うのです

 

自分が生きるために 誰かの何かの犠牲や労力があることを

 

誰かのてまひまの作業の結果があることを

 

自分や家族に教えていくのです

 

 

 

個々に忙しい暮らし方をして 

家族が一緒に食卓を囲むことが減っていますが 

子供たちはとできるだけ時間を共有してくださいそして

 

頂きます、ご馳走様の意味を伝えて 一緒に言ってください

 

そんなことが 心に命の大切さを伝えてくれます

 

繰り返し繰り返し、誰もいなくても 

身についた習慣となるまで 子供に 教えてください

 

 

 

口にしている様々な動植物には命があるのです

 

それらを 口にするために 様々な作業があるのです

 

できれば小さなときから 

一緒に買い物に行き 一緒に料理してください、

手間ひまの作業を経験することで

 

ご馳走様の意味は 

子供なりにわかるようになります

 

、、、愛羅。、、、、

 

暗黙知(あんもくち)

 

暗黙知(あんもくち)

 

暗黙知とは、長年の経験やノウハウ、直感、

勘やイメージといった経験的知識として語られる

知識のこととされています

 

 

自転車の乗り方は理屈で知っても 

現実に乗るためには

 

乗ってみて体がバランスを覚える必要があります

 

理屈でことばで表せるものではなく

体が覚える、

ことばでは表現できない経験が暗黙知と思ってください

 

 

 

料理も同じで 使う材料は同じなのに

母と娘では味が違ったりするのはこ

の暗黙知の違いと思えばいいです

 

 

 

知識を得るだけでは 

できないことが多いのです

 

ことばにならないこと

 

ことばにできないことを

 

身につけることが

 

できることにつながります

 

 

 

何度もバランスを崩す経験をしてから

自転車が乗れるようになるように 

本当にできるためには

 

バランスを崩すことを恐れてはいけないのです

 

 

頭の中で いくら考えても自転車は乗れないのです 

母と同じ味の料理はできないのです

 

知識の多さより 

暗黙知を優先してみてください

 

現実生活は 

ことばにできない経験、

みて真似ることのほうが多いのです

 

 

。。。愛羅。。。。

 

 

 

ありがとう(盲亀浮木の譬)

 

盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)

 

お釈迦さまのお話の中に
果てしなく広がる海の底に、

目の見えない亀がいます
その亀は、100年に1度、海面に顔を出します。
広い海には1本の丸太棒が浮いています。
その丸太棒の真ん中には、小さな穴があります。
丸太棒は、風のまにまに、波のまにまに、 
西へ東へ、南へ北へと、漂っています
100年に1度浮かびあがるその目の見えない亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太棒の穴に、
ひょいっと頭を入れるのです。

 


けれど 私たちが人間に生まれることは、 
その亀が、丸太棒の穴に首を入れることよりも、
もっと難しいこと、有難いことなんだ・・・・・

 と教えられています

 

このようなことが有ると思えない 

 

難しいことが起きることが有難うなのです

 

 

 

不満や愚痴は 

何かをしていただいたありがとうよりも してもらえない 

不足探しをしているからだと思ってください

 

してもらえること 

あることが基本になるから

 

ありがとうと思えず、

不満が愚痴になっているのです

 

何もしてもらえない、何もないのが基本なら 

 

不満や愚痴はなく 

ありがとうだけになるはずなのです。

 

 

。。。愛羅。。。。

 

 

 

業力不滅

 

 

 

私たちの心や口や体でやった行い(業) は業力といって

 

結果を生み出す力と なってやった本人に蓄えられていくと

 

お釈迦様 説かれています。

 

これを業力不滅(ごうりきふめつ)とか

 

 不滅の業力といいます。

 

 

 

誰も見ていないところでやったことでも

 

誰も聞いていないと思っていったことでも

 

 やったという事実は事実です。

 

なので必ず結果を生み出す力となって

 

 やった本人に残るのです。

 

 

 

見つからないから

 

ばれなきゃよいと 

 

悪事を行ったら 他人にうそをついてごまかしても

 

自分は知っているのです

 

自分の心はごまかせませんから 

 

必ずどこかで矛盾した言動となり

 

自分を苦しめることになるのです

 

 

 

人は 一度身についた悪い習慣はなかなか自分から離れ

 

てくれません。

 

わかっているけどといいながら 繰り返すのです

 

朝寝坊・・がやまらない・・という人もあるでしょう。

 

6時に起きるぞ!! と目覚ましかけて

 

朝、目が覚めるのですが、まだ、時間があるから 後 10分・・・

 

ハッと気がつくと630分・・・ まずい・・そんなことです。

 

 

 

寝ぼう・・という体の行い(身業)が

   <また寝坊しただめだな>

   <朝 起きることもできないなんて>というように、

 

どんどん自分を縛っていきます

 

やればやるほど、私たちは自分のやった行いによって

 

縛られていき そして自分で 

自分がコントロー不能になっていくのです

 

 

なぜか???

 

それは私たちの行い(業)に力があるからです。

 

それが業力不滅(ごうりきふめつ) とお釈迦様は

 

説かれています。

 

誰も見ていないところでやったりいったり思ったり

 

したことが運命・結果を生み出す力となってやった本人に

 

蓄えられるのです。

 

だから

 

まいた種は必ず生えるということです。

 

苦しい時、つらい時、

あいつのせいこいつのせいと すぐに犯人捜しをします。

 

しかし、静かに自分のやってきた行いを振り返ってみましょう。

 

案外そこに答えがあるものです。

 

 

 

。。。愛羅。。。。

 

「四馬の譬喩」(しばのひゆ)

 

「四馬の譬喩」(しばのひゆ)

 

(1)鞭影(べんえい)を見て驚く馬

 

  一番目の馬は、騎手が鞭を振りかざしたその影を見て走り出す馬で、

  もっとも良い馬。
(2)鞭(むち)、毛に触れて驚く馬

 

  二番目の馬は、毛の先に鞭が触れて走り出す馬。
(3)鞭、肉に当って驚く馬 

 

   三番目は鞭が肉に触れてから走り出す馬。

 

(4)鞭、骨にこたえて驚く馬 

 

  鞭を何度打っても気付かず肉を裂き、

 

  骨に達してやっと走り出す馬。 

 

 

 

 

 

人は必ず死ぬ日がやってきます

 

鞭が振りかざされるのです

 

日々起きている現象から 何を感じとり

 

どうすべきか 

 

自分は 何番目の馬なのだろう

 

 

 

。。。。愛羅。。。。。